【初詣に思う】日本人に節操がないのはなぜか
あけましておめでとうございます。
バスの電光掲示板に表示された「あけましておめでとう」の文字をウチの大きい方の怪獣(雄5歳)が発見してくれました。
北海道在住なもので、初詣は北海道神宮です。
↓雑踏警備ご苦労様です
↓参道
↓境内
初詣というのは、自分の意識に深く根付いていて、深すぎるゆえに自覚のない宗教的感覚を改めて実感する機会でもあります。
無自覚な宗教的感覚とはなにか
僕自身に根付くそれは、国家神道そのものというよりアミニズム的な原始神道だと思います。
ルーツはきっと、幼少期に日本昔ばなしなどの民話に触れて、意識の根底に刻まれたものでしょう。
例えば
神域を汚すようなことはタブーである
という意識。
「バチが当たる」という教えは、例えば外国や他宗教の施設を訪れ、「神聖なモノ」に接した際に、作法はともかく礼儀としてどう振る舞うべきかを教えてくれます。
少なくとも他国の宗教施設を破壊し、汚すことを誇るような文化は、日本人にはあって欲しくないし、ないものと信じています。今年は嫌な事件が起きないことを祈っています。
日本人には節操がないのか
「日本人は無宗教だ」と言われますがそんなことは全くなく、無自覚な「日本的ユルい宗教」の方が多いんですよね、きっと。
正月の初詣に始まり、節分、雛祭り、端午の節句、七夕、お盆お彼岸、ハロウィン、クリスマスって、本当節操ないですよね。
でも、それが「らしさ」なんですよね。
ユル〜い感じの「日本教」とはなにか
絶対的な唯一神を信仰しないがゆえに、他者の信仰にも寛容であることは一般的に言われる多神教の特徴です。
仏教においてヒンドゥーの神々が◯◯天になったように、多神教においては他宗教の神を取り入れることもよくあるといいます。
なので、他宗教の守護聖人(サンタクロース)とかお盆的なお祭り(ハロウィン)とかも、割とあっさりと取り入れてしまう。
けれど、それはそのままのカタチではなくて、「日本教」における、新しい渡来系の神様とかお祭りとして迎え入れる。結果、八百万の神の新たな一柱になっちゃってる。
そこでは祭祀の持つもともとの意味は消失して、単なる記号と化していますね。
サンタなんてどう見ても「西洋風の福の神」ですし。紅白のめでたい格好なのはコカコーラの広告戦略のせいだとしても、宝船ならぬトナカイのソリに乗って正月の一週間前にお宝を運んでくる、しかも特に代償なしだなんてサービス良すぎ。
ハロウィンのカボチャのランタンとかお化けの仮装の意味、一応知っている人はいるでしょうけれど、ケルト人のお盆という趣旨を理解して信仰心からやっている人はほぼ皆無でしょう。
まあいずれも商売っ気がプンプンしてますが、宴が始まれば踊らにゃ損損ってなもんで、踊るんですよね結構。
仏教だって、葬式仏教と揶揄されていますがもともとは哲学みたいなものですしね。死んだら輪廻転生のサイクルを回るから、それを嫌がって輪から外れる=解脱を目指す、のが本来目指すべきところですが、先祖の霊があの世からやつてくるお盆は仏教と全く関係ない土着の祖霊信仰ですし。
多くの世界的宗教では戒律による禁則が多いですが、多くの日本人はおよそ守っちゃいない。死ねば仏になる仏教徒でも肉食やら女犯やら、ねえ。
というわけで多くの日本人が無自覚に信仰している「日本教」は、極めてユルいがゆえにその姿が見えにくくなっている。見えにくいが、「無い」のではなく、ちゃんと「在る」。
独自の戒律も経典もなく、仏教も国家神道もクリスマスも含めたごった煮を、ふわっと内側に包み込む風呂敷みたいな宗教なんだ、きっと。
信仰の核はなにか
そんな日本人というか僕の信仰の核にあるのはおそらく、アミニズム的な
人智を超えた聖なるモノへの漠とした畏敬の念
ですね。
これだけはある。むしろ、きっとコレだけ。
昔話の時代でいえば、海から流れ着いた異国の神像を、神様ならとりあえず奉って拝んでおけばいいだろ、みたいなノリ。
そんな、他国の宗教行事でも抵抗なく受け入れ、取り入れてしまう、節操のなさとユルさ、僕は結構好きですし、そんな寛容な文化を愛しています。
なので、できれば他者の宗教への不寛容が世を覆うことなく、ゆる〜い感じが続いていって欲しいなと、切に願っています。
まあこういうノリがそもそも、排他的な一神教とは相容れないんですがね。
次代へ繋ぐものはなにか
なので、別に国家神道信奉者に育てる気はないんですが、子どもたちには、排他的にならない
ゆる〜い宗教観
を、受け継いでいって欲しいな、なんてことを思いながら参拝に連れて行ってきました。
さてそれでは、
今年が皆様にとって良い年になりますように!
宗派や洋の東西を問わず、